戦争体験談「集団疎開の思い出」
更新日:2021年9月21日
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集団疎開の思い出
池田 眞砂子
昭和20年6月、戦争がだんだんはげしくなり、芦原国民学校3年生の女子は2人の先生(平内先生、浜田先生)に引率され、岡山県久米郡大東村の蜜厳寺へ集団疎開しました。お寺の朝は霧が深く立ちこめ、3~4メートル先は見えませんでした。小川へ行く頃には霧が晴れていき、見えやすくなっていました。
お寺の方達・村人達に可愛がって頂きながら、生活していました。毎朝、近くのきれいな小川へ顔を洗いに行きました。小川は水面がキラキラ光っていて、とてもきれいでした。洗濯もしに行きました。今まで、洗濯したことのない私は、ままごとをしているようでした。
両親や兄姉達のいない生活は心細くて、さびしくて、時々、泣きさけびたくなりました。一番困ったことは、昼食のジャガイモの代用食でした。お皿にゆでたジャガイモが2個~3個と塩が入っていましたが、食べられなくて、お腹がすいて泣いていた私に、お寺の奥様が「どうしたの?」、『ジャガイモの御飯が食べられなくて、お腹がすいた…。』、「お家にいた時何食べていたの?」、『麦御飯食べていた』ことなどを話しました。奥へ連れて行って下さり、白い御飯とお香子をいただきました。御飯の甘くて、おいしかったこと。子供ながらに、こんなに甘くてまるでお砂糖が入っているようで、おかずはいらないと思っていました。「遠慮しなくていいんだよ、お腹いっぱい食べなさい」と、お代わりさせて下さった。あの時の御飯の味は、70年たった今も時々なつかしく思い出しています。
時々、駅へジャガイモの配給を取りに行きました。重くて重くてカバンを引きずっていたら、時々ヨッちゃんが「マーちゃん、チビやから袋、下についてしまってるやん、私の袋とかえたげよ」とかわってくれ、ヨッちゃんのは軽くて、うれしかったです。ありがとう。
一週間に一回、班ごとに別れて、もらい風呂に行きました。野道を行くと、蛇がトグロを巻いて寝ていました。私達が通ると、ヘビは頭を上げて見ていました。何もしないと分ると又頭を下げました。
お風呂からあがったら冷たい麦茶をいただき、おいしかったです。いつも午後から、糸を通した針を2、3本持ってイナゴ取りに行きました。稲穂がコガネ色に色づき、まるで風にそよぐコガネの波に見えました。きれいだった。その横の畦道を夕日がさすまで、イナゴとりをしました。
お寺に帰ったら、寮母さんが炭火を入れてくれた七輪で、イナゴを焼きました。イナゴはいいおやつになりました。水車の横のおばちゃんは、上にあげて遊ばせてくれました。おせんべいを頂き、うれしかったです。お寺へ帰る道で、時々お寺へこられるおじさんに逢いました。「お寺の子やな…、こんな小さいのに可愛そうにな。」、「道で食べてしまってから帰りや。」と持っていた柿を下さりました。その柿の甘くておいしかったこと、忘れられないです。今でも果物の中で柿が一番好きです。
皆で山へ連れて行って頂き、ブドウによく似た桃の甘ずっぱくて、おいしかったこと。大きな川で水のかけ合いっこや、カニとり。石をのければカニが逃げ出し、キャーキャー言いながら、カニを追いかけてとるなどの楽しい思い出。お寺のお兄さんの海軍さんが、ハーモニカを吹いて下さったこと、良子先生がよく声をかけてくださったこと、良子先生のお友達は、お寺の坂道のところの栗の木の垣根があるお家のお姉さんでした。村祭りの日に2~3人ずつで、およばれに行きました。栗赤飯や、おすし等、大きなテーブルにご馳走が、いっぱいならんでいました。夢のようでした。
ある日、母に逢いたい一心で友達と3人で岡山の駅へ逃げました。木のベンチの下へかくれていたのですが、見つかって、お寺へ連れて帰られました。
70年の時を経た今も、時々懐かしく思い出しています。このように岡山の疎開生活は私の大切な心の宝物です。私に人の暖かさ、人情を教えてくれました。あまりの懐かしさに、70年の昔を思い出しながらペンを取りました。乱筆乱文お許し下さいませ。
平成29年1月18日寄稿