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戦争体験談「戦後79年に思う 戦争の悲劇 こんなところにも」

更新日:2024年10月17日

ページ番号:70852886

 

戦後79年に思う 戦争の悲劇 こんなところにも

山本 さよ子(80歳)

 
 
 
 私が物心ついたときには父はいませんでした。私が母のお腹の中にいるときに召集され、昭和19年11月にビルマで戦死しました。
 戦死公報が届いたのは昭和22年私が3歳のときでした。
 私たち家族は戦時中から滋賀県の父の実家で暮らしていました。実家では父の両親と独身の義姉と一緒に暮らしていました。
 しかし父の戦死公報が届くと義姉の態度が一変し、私たちを邪魔者扱いし追い出しにかかったのです。
 
 ある夜、夕飯を食べ終えくつろいでいるとき、義姉は障子を両手でパンパンと開け、仁王立ちのまま大声で「お父さん、早くこの人らを出て行ってもらって!財産がほしいなら、やるものやってででいってもらって。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うけど、この子まで憎いわっ!」とわめき、私は母の背中にしがみつき泣きじゃくっていたというのです。
 母は泣く泣く私を連れて畑にある未完成の小屋に移り住んだのです。母はこのストレスで全身の関節リュウマチの大病になり、3年間入院しました。私は意地悪な伯母に引き取られ、母の退院まで過ごしました。
 その間に私は小学校に入学しましたが、そのときのことは何も憶えていません。友人は、学校へ行く時、さよちゃんを迎えに行ったよ、と言いますが記憶がありません。
  
 母は、あの意地悪な伯母に私を預けているわけにはいかないとの思いで退院を早め、同じ滋賀県の母の実家でお世話になることにしました。
 母は病み上がりの身体で、周りの人に手伝ってもらって農耕をし、出稼ぎにも行き、私を一生懸命に育ててくれました。
 今、私がここに生きておられるのは母の大きな愛があればこそです。「ありがとう」の言葉は、何千回何万回言っても言い尽くせません。
 母は七十歳で父の元へ行きました。父とどんな会話をしているのでしょう。
 母の大きな愛に感謝です。

令和6年10月8日寄稿


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