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戦争体験談「富山の空襲」

更新日:2024年7月19日

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富山の空襲

 

高橋 光郎(89歳)

 

 
 
 昭和二十年八月一日―空襲のあったあの日はどういうわけか昼間は何をして過ごしたのかとか、なぜ夕方には母が八尾に行って自分があの母子寮に池田さんと二人だけだったのか分からないままである。自分が思い出せるのは夕方6時頃だったと思うが自分だけが家にいることに不安になり、10分ほど離れた富山駅へ急いで走って母を迎えに行き、駅から出てくる人の流れの中に必死で母を探したが、結局母は帰ってこなくてがっかりしながらとぼとぼと薄暗くなりかけた町をさびしく帰った記憶からあの日が始まっている。
 
 寮に帰ると、一階の我が家の部屋で一人寝るのは灯火管制の時で怖くて、二階にあった池田さんの隣の部屋で寝ようとあがって行った。窓の前にある憲兵隊の兵舎では灯りもついていて、話し声も聞こえて幾分寂しさもまぎれたのでそこで寝ることにした。夕食はどうしたのか今でもわからず、食べずに寝ることになったと思う。
 
 そのうち警戒警報がなり仕方なく防空壕に避難した。もっと他人と話せる男の子だったら池田さんとも話していろいろと世話もしていただいたと思うのだが、ただ話もせずに防空壕に入っていたように思う。そのときの気持ちはただ不安で母のことを考えていたようで、避難してどの位過ぎたのか分からないが1時間ほど経ってやっと防空壕のすぐ前にあった塀の入り口の扉から荷物を背負った母が入ってきた。本当に嬉しかった。あの時の喜びは、今でも母が苦労してやっと扉から入ってきた姿をありありと覚えているのを見ると、人間が一生経験しない大きな喜びのひとつだったのだろう。
 
 母の話では、あの時汽車が空襲警報で途中で動かなくなり長い間停車したままで帰るのが遅れたんだそうだ。それからしばらくして警報も解除になり、母と一緒に我が家に帰り何か食べて蚊帳の中に入り洗い物をしている母の背中を見ていた時、突然、サイレンが鳴り空襲警報の合図とともに市内の北西部の辺りでドドンという爆発音が響き急に空が真っ赤になった。多くの人が解除で家に入っていたので即死の人が多かったのだろうと思う。急いで防空壕に入ったがその途中空を見上げると火を噴きながら焼夷弾が落ちてくるのが見えた。北西部から北部、北東部へ、南東部、南部、南西部へと富山市街の周辺部を最初にやってそれから中心部へというように焼夷弾による爆撃が行われた。
 
 防空壕の入口から空を見ると花火のように火花を吐きながら無数の焼夷弾が落ちてくるのが見えた。それで夜空は昼間のように明るく美しい光景でした。その下では多くの人が苦しみに喘いで死んでいるのを思うと本当に残酷な夜景でした。母が「最後になるかもしれないが、よく見ておきなさい」と言うほど花火のようにきれいだったので、危険も忘れて池田さんと県庁の職員と一緒に並んで空を見上げていました。それからしばらくの間防空壕の中にいたが、職員が県庁のほうへ逃げ、すぐ池田さんも辺りに焼夷弾が落ちだすと、「ここから逃げます」と言って防空壕から出て行かれ、壕の中には母子ふたりだけになった。母は一人であれば後について逃げたと思うが子供の自分がいたので諦めたのだろう。しかし、母の不安な気持ちは辛い気持ちと生き延びなければならない気持ちが入り混じって大変だっただろうと思う。あの時何か声を掛けてくれたけれど自分も不安と怖さで覚えていない。
 
 そのうち爆撃も激しくなり、壕に入ってくる空気が熱くて呼吸をすると息苦しくなり出した時、池田さんが「火の粉が激しくて到底逃げられない」といって飛び込んでこられた。母もあの時は本当にほっとしたし嬉しかっただろうと思う。幸運だったことは、前日に雨が降って壕の中の地面が湿っていたので、入ってくる乾燥した熱い空気を避けて顔を地面につければ息を吸うことが出来たこと、それと、壕の中に米の入った缶があってそれを壕の入口に母と池田さんとで積み上げて火の進入を防げた。今から思うと本当に長い時間だったし、熱い息苦しい狭い壕の中でのことだったので池田さんと母は声を掛け合いながら必死で大変苦労しただろう。防空壕の外では容赦なく焼夷弾を雨あられと落としていて破裂する音が響いていた。そのうち、焼夷弾の一発が真中にいた自分のすぐ横に壕の天井を突き抜けて飛び込んできて火花が散り慌てて消した。幸い、地面が濡れていたので落ちると地中に突き刺さって爆発しなかったので首の軽い火傷ですんだ。母がよく「あの時はお父さんが守ってくれたんだ」と言っていたが、母の持っていた少ない幸運の一つで小さい時から恵まれなかった母を神様もそれ以上に不幸に出来なかった出来事だったように思う。
 
 その後は互いに声を掛け合いながら顔を地面につけ空襲が終わって焼け野原になるまでそんな状態で時間が過ぎていった。そのうち、みんなうとうとして朝になっていた。
 朝日がさして空襲も終わって防空壕から出た時の一面焼け野原になった辺りの光景は今でも脳裏に焼き付いている。あちらこちらに煙が上がっていて土蔵が焼けていた。持ち主が助かったと思って急いで確認のため扉を開けたため熱気の充満した土蔵の中に空気が入って火事になったと、県庁の職員が安否を確かめに来て、説明してくれた。泥の中に顔を突っ込んでいたので、汚れてしまった顔を水がないので防空壕の横にあった畑の焼けてゆでたようになったきゅうりで洗った。一面焼け野原になった街を見ながら助かったという喜びを噛みしめていた。頭の中は空っぽで何も考えていなかった。
 
 少し落ち着いてから池田さん、職員と別れの挨拶をして八尾へ出発した。途中、松川沿いの道端には多くの煤けた遺体が横たわり空気は少し煙っているようだった。神通川の土手や川岸にも無数の遺体が横たわっていたが、ほとんど放心状態だったためか何も感じないで、ただぼんやり朝の日差しを浴びながら歩いていたようだった。速星の駅についた時の駅の姿は今でもありありと脳裏に残っている。
 汽車に乗って八尾に着き、歩いて寺まで行ったが、みんなに出迎えてもらった時のことなどは悲しいことに何も記憶に残っていない。速星到着以後のことはお腹がへって夢遊状態だったのかもしれない。今考えてもよく助かったものだと思う戦時中の本当にいやな出来事だった。

令和6年7月16日寄稿

 

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