戦争体験談「西宮での空襲体験」
更新日:2025年3月14日
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西宮での空襲体験
廣田 正也 (88歳)
B29
1940年頃私の家は西宮市中浜町 にあり、建石国民学校に通学していました。
2年生になるころからB29爆撃機による空襲が激しくなりました。
家の門から玄関の間にある通路の東側に防空壕を作ってあり、家の南西方向にある畑の角に隣組の大きな防空壕がありました。
はっきりした日付は覚えていませんが、多分6月の終わり辺りでしたでしょうか。
いつものように空襲警報が出てボクだけが隣組の防空壕に逃げていました。
父と母は家の防空壕にいたのでしょう。姉は浜脇国民学校に勤務していたので不在でした。
防空壕の中にいてもB29が飛んでこないので、外に出て遊んでいました。
その時急に空の上の方で何かきらきら光る物が大量に降ってくるのが見えました。
慌てて防空壕の中に飛び込むのと同時に嵐のような音と共に辺りが真っ暗になって一面火の海になってしまいました。
焼夷弾(しょういだん)で爆撃されたのです。
それからしばらくの間どうしていたか記憶にありません。
父や母が死んでしまったか心配で外に出てみたら、自分の家が真っ赤な炎になって焼け落ちて行くのが良く見えましたが、見ていながら何の感情もなかったように思います。きっと放心していたのでしょう。
父と母は家の前の田んぼの畦に座り込んで、家が燃え尽きるのを見ていました。
そのうちに姉が戻ってきて「みんな無事でよかったね」と言ったように思います。
後で聞いた話ですが父と母は家のタンスと壁の間に落ちてきた焼夷弾を消そうとしたが、消すことが出来ずタンスを引っぱって外に逃げたようです。
爆撃の時にボクのいた防空壕の屋根に焼夷弾が直撃しましたが屋根の盛り土が厚かった為に、もう10センチほどのところで貫通を免れましたが、抜けていたらみんな焼け死んでいたでしょう。
空襲からしばらくの時間は、黒煙で夜の様でした。しばらくして雨が降り出して、そのしずくが真っ黒だったのを良く覚えています。
お隣の家の角で誰かが焼け死んでいました。大人と子供でした。近くで渡辺さんのお父さんが大声で家族の名前を呼んでいたので、もしかしたら渡辺さんだったのかもしれません。それはそれは無惨な姿で焼き魚の様になってしまいました。
その記憶は一生忘れることはありません。
焼け跡
近所の家もみんな焼け落ちてしまいました。まだ少し煙りが出て、暖かいのに何か焼け残ったものがないか、みんな夢中で探していました。
台所の付近からは瀬戸物の皿や茶碗が出てきましたが、溶けたガラスがアメの様にくっついていて使えそうなものは余りなかったと思います。
お風呂場にあった五右衛門風呂の大きな鉄のカマがむき出しになって残り、ひときわ大きく、また寂しく映りました。
回生病院
家が焼かれて住むところがなくなってしまいましたが、父が胃の病気?で回生病院へ入院しました。
そんなわけでみんなで病院で寝泊まりをしたんではないかと思いますが定かではありません。
しかし他に行くところもなかったので多分それが正しかったと思います。
学校も休校になったので海で魚とりをしたり、病院の横の松林のところに居た兵隊さんの自動車から出たカラ消しを拾ったりしたように思います(そのころの自動車はガソリンがなくて木を燃やして走っていました)
空襲警報が出ると恐ろしくて、海岸の高潮で壊れた防潮堤の間に逃げ込んでいました。
また病院正面玄関の車寄せの所は、何時までも引き取り手のない焼死者の遺体が何人も置いてありました。そのことは何時までも頭にこびりつき、回生病院の玄関はボクにとって鬼門でした。
あそこを見るとその時のことが何時までも頭に浮かび、記憶から消えるものではありません。
令和7年3月13日 寄稿