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戦争体験談「今、思うこと」

更新日:2024年9月19日

ページ番号:24178334

今、思うこと

 

須古 路子(85歳)

 

 
 
 まわりに恐ろしい戦争の体験をした人が少なくなってきた昨今、伝えなくては・・・と思う日々です。
 
 私は昭和14年生まれの85歳、明石で生まれ育ちました。明石駅近くに祖父母、両親、姉弟の6人暮らしでしたが昭和19年7月B29が飛来し、(川崎航空機があったからとも・・・)明石公園や中崎海岸に、防空頭巾、もんぺ、母の手作りの肩バック(名前、生年月日、血液型、住所がはりつけられていた)姿で逃げまどい、血だらけの人達の、「こっちは危ない!」の声で祖母に手をひっぱられ、2歳の弟は母の背中でうつらうつらと・・・今は何も覚えていません。明石駅周辺は危険ということで、明石の北西、約7~8キロ離れた印路という田舎に祖父母と共に私達姉弟は、牛小屋を借り、住みました。ここでも昼夜問わず空襲警報が鳴り、山際に作られた防空壕に逃げこみました。夜中の時は、電気をつけてられなかったので、前日の夜につかまえた蛍を虫かごにいれ、枕元にたたんだ防災服を大急ぎで着るようにしつけられていました。外に出て明石方面を見ると真っ赤に燃えている明石が見えました。忘れることが出来ません。
 
 昭和20年終戦となり、明石の両親のもとに戻ることが出来ました。翌年4月は、小学生。明石国民学校に入学。母が達筆でカタカナで姓名を書いてくれ、2年間はカタカナ、教科書、授業でした。給食は何とか食べられるものでしたが、「マクリ」というドロドロの虫下しを食べないといけない、つらい食品でした。
 
 学校から帰って遊びに出ると明石の人通りが多い場所では、傷病兵達が、(松葉杖歩きの人がいたり、グループでアコーディオン演奏をして)寄付を待ち、アメリカ兵は2~3人で町中をウロついています。子供達を見るとニコニコして、子供がハローと声かけすると、チョコレートやガムをくれるのです。私達はつぎはぎの服でしたし「魚の棚」(明石近郊の台所として栄える商店街)も復興に忙しくしていました。
 
 その頃、私の夫の兄は、今年百年を迎えた甲子園球児でした。昭和14年、関学中等部15歳で召集され、戦艦大和の艦載機で活躍しておりました。呉の港で休暇中、舟は鹿児島沖で爆破されたのです。267人の生存者の1人となりました。今、生存していれば百歳なのです。当時、夫の家族は、香櫨園北の松下町に住んでいましたが焼け出され、神戸市灘区に居住となりました。夫は建石小学校、妹は学童疎開と家族はそれぞれバラバラだったそうです。
 
 こんな悲惨なことがないよう、平和が戦争を封じこめてくれることを祈るばかりです。

令和6年9月11日寄稿


 

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