戦争体験談「戦争とは、」
更新日:2024年8月23日
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戦争とは、
菟原 満(89歳)
忘れてはいけないこと
今年も暑い夏が来た。特別暑く感じるのは歳のせいか。
しばらくの時間・眼を閉じて昭和16年に戻る。其の年4月に小学校入学。姫路の城の北側に学校が有りました。幼稚園と同じ敷地内に有ったので違和感なく通学出来ました。
その年の12月8日に戦争がはじまったと先生から聞きました。戦争がどんなことなのか分からないまま一年生が過ぎました。街の噂では、日本軍が、外地で勝利をしてみんなが喜んでいる様でした。しかしながら、次の年くらいから、どうやら戦局が良くないらしいと云う話が広がっていく。銃後の守りとして女性も、国防婦人会が出来ました。学校では、連日、空襲警報のサイレンが鳴るので、授業の途中でもみんな急いで下校しました。硫黄島の玉砕、サイパン島の陥落、子供でもそれが悲しい事だと感じました。国内のあちこちで空襲が有り、東京・大阪も連日被害に逢っていると聞きました。
ある日の夜、東の空が異常に明るいので何だろうと思っていましたが翌日、軍関係の工場が爆撃を受けて焼けた、と知らされました。私達の町内で作った防空壕は小さなもので、町内の全員が入るのは難しかった。B29が夜、頭の上を飛んで来る様になったので、私達一家も町内の人達と一緒に、家の東方300メートル程の市川の右岸に有る竹藪の中に避難しました。昼間でもうす暗い竹藪の中、夜になると何も明かりの無い所で、人の顔もよく分からない、声だけが頼りです。蚊が無数に居ます。殺虫剤などは有りません。団扇でたたくだけ、全身を刺されました。そんな事が一ケ月程続いた後、20年7月3日の夜、とうとう私達の頭の上にB29が来て爆弾を落して行きました。地響きが激しいので、全員防空壕から飛び出して、布団を頭からかぶって方向も分からないまま、みんな走っていました。母ともはぐれて、散り散りになった。夜が明けて家の方へ帰る途中、田植えの終ったばかりの田の中には焼夷弾が、無数に刺さっていました。用水路の中には、不発弾の六角形の焼夷弾がゴロゴロと落ちていました。子供の胴体程の太さのジュラルミン製かと思われる爆弾が、不発して柳の木の下に有りました。柳の木が折れていたので、枝に当って爆発しなかったのかと思います。どれ程、時間が過ぎたか分かりませんが、家族がみんな集まりました。一安心です。
戦争は何も良い事が有りません。
暗くて、悲しくて、辛くて、みんな明るい言葉を忘れています。
夢を持った多くの人達が叶える事が出来なかったことを忘れては、いけません。
戦争は、何の希望も持てません。
私は過去の体験が有るので、少々の苦しい事も我慢出来ます。
皆様のおかげで、今が有ります。感謝。
終
令和6年8月15日寄稿