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戦争体験談「祖母から聞いた西宮空襲の話」

更新日:2024年7月26日

ページ番号:43073597

祖母から聞いた西宮空襲の話

 

匿名

 
 私の母方の祖母とは、祖父が亡くなってから、祖母が亡くなるまで5年ほど一緒に暮らしました。私と一緒に寝るようになってから祖母は祖父の存命中は一度も話さなかった西宮で遭った空襲について、色々と話してくれました。
 
 祖母は姫路の飾磨出身です。歯科医の祖父と結婚し、2人は今津曙町で開業しました。当時はまだ埋め立てられておらず、午前と午後の診察の間、豊岡育ちの祖父は近くの海岸で気持ち良く泳いでいたそうです。おそらく今の今津浜の辺りかなと思います。
 
 「終戦まであと二ヶ月やったのに」と言っていたので、昭和20年6月頃でしょうか、米軍の飛行機が飛んできて『2日後に空襲があります、逃げてください。』というビラがまかれたと話していました。私が祖母と暮らしたのは大阪の千里でしたが、父の定年退職の少し前に、母の悲願であった西宮に引っ越しました。私は当時27歳でした。まず思ったのは祖母が話していた西宮の空襲について知りたいということでした。私の結婚後になりますが、西宮市平和資料館へ行ってみました。ビラは祖母の話していた通りまかれていました。祖母から聞いていたのと同様のビラで「天皇陛下に戦争を止めるように伝えてください」というようなことも書いてありました。
  
 空襲を前にして、生まれたばかりの母を背負いながら、歯医者の道具類を梅干を漬ける壺に入れて土の中に埋めて、祖母の実家の飾磨へ3人で逃げたそうです。祖父が亡くなってから祖母が亡くなるまで、私が中学生の頃の5年間に聞いた話なのではっきりと覚えていないのですが、電車だったのか歩いて逃げたのかはわかりません。2日後、西宮の方を見ると空が真っ赤になっていたそうです。「焼夷弾をB29が落としよったんよ」と話していました。空襲が終わったころ西宮に戻り、祖父と土を掘って壺を開けてみると中身は無事だったそうです。でも診療台など大きな器械は飴のように溶けていた、と話していました。祖母が涙も流さず、事実のみ淡々と話していたことが印象的です。
  
 私は今53歳ですが、当時の祖母の話は記憶に残っています。資料館には、戦時中の婦人会の方々の写真があり、皆、戦争末期なのに神風が吹くと思っていたのでしょうか。ニコニコ笑って写真に写っていました。私はその写真の前で膝から崩れ落ちる感覚でした。当人の祖母も泣いていなかったのに、孫である私は涙が止まりませんでした。本当に彼女たちは皇国日本は敵に勝てると信じていたのでしょうか。
 
 祖父母はその後、大家さんから土地は新しいことに使うから出て行くように告げられ、不慣れな加古川に移って開業しました。祖父の好きな海の無い、新たな土地での開業でした。戦後は多くの人々が、大変な苦労をされたと思いますが、祖父母も例に漏れず苦労しました。祖母は肋膜炎になり祖父は甲状腺の病気で大変酷い状態に陥り命も危ぶまれました。母から聞くには、祖父母がいつも病気で家の中が暗かったそうです。その後、母は西宮市内の大学に進学しました。あの空襲が無ければ自分はずっと西宮で育っていたのではないか、大学の雰囲気も好きになりました。自分が生まれたのは西宮。進学してからは西宮こそ私の故郷、と思ったそうです。ミッションスクールの雰囲気も大変気に入り、洗礼も受けました。因みに私もその後、受洗しました。私達の家族は先述のとおり千里におりましたが父の退職前に西宮に引っ越しました。父も加古川出身ですので老後は兵庫県で。と思ったのかもしれません。母は自分を「宮っ子」だと言っています。少しユーモラスですが、母なりの平和への思いかなと思います。
 
 西宮で生まれ、育(はぐく)まれた大学も西宮で、とにかく西宮が好きになり、西宮で生涯を全(まっと)うしたいと思っているようです。私も西宮が大好きです。母と同窓の主人と結婚し、昼食を食べに2人で食堂に行くこともあります。祖父母も西宮で生涯を過ごせていたとしたら、父と母は出逢う可能性は少なく、私は生まれていなかったかもしれませんが、いつまでもこの西宮が平和であって欲しいと思います。
 
 祖母の話は切なる祈りであったようにも思い、書かせていただきました。
 

令和6年7月20日寄稿

 

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