【甲陽園】華やぐ映画撮影所
更新日:2022年1月25日
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甲陽園は大阪の大商人、著名人らが別荘をかまえ、遊園地や高級料亭が建ち並ぶ一大リゾート地となりましたが、このほかに昭和を代表する多くの映画人が行き交う映画の製作所「東亜キネマ甲陽撮影所」があり、その華やかさで人々を魅了した地でもありました。
関東大震災と甲陽撮影所
大正12年9月に発生した関東大震災は被害の甚大さを含め、関西にさまざまな面で影響を与え、社会・文化面等では西宮も例外ではありませんでした。
大阪の生命保険会社が、この震災を契機に自社宣伝用の映画を製作するため、甲陽園にあった映画撮影所「甲陽キネマ」を買収し、大正12年12月「東亜キネマ株式会社」を創立します。
この前後に上月吏(こうづきつかさ・脚本)、徳永フランク(徳永文六・監督)が甲陽撮影所に入社しています。保険会社製作の映画「求むる父」は、獏與太平(古見卓二)が監督し、絵島千歌子が主演しました。
モダンな撮影所 東亜キネマ甲陽撮影所
左側三角屋根の巨大な温室のような総ガラス張りの建物がスタジオで、当時としては珍しく配電室、現像場、大道具・小道具、衣装部、普通写真部などがそろっていました。その右にある3階建てが事務所、スタジオ向かいの建物が撮影所です。
撮影所の裏に「東亜稲荷大明神」という稲荷神社を勧請し、入魂式を行っています。
稲荷神社入魂式後のひと時、撮影技師武藤郡一郎撮影した一枚です。左から2番目に甲陽キネマ総務部長井上氏、そこから右に歌川るり子(井上氏の後ろ、サトウハチロー氏と結婚)、絵島千歌子、環歌子、上村節子、子役と女優(氏名不詳)を挟んで堀正夫、子役の都賀静子です。笑顔に撮影所の活気がうかがえます。
甲陽大池の北には「いろは長屋」というスタッフの宿舎もありました。棟割長屋のそれぞれに“いろはに…”と順番に名札が貼ってあり、この長屋の一室にまだ無名であった榎本健一、通称エノケンも泊まりにきたといわれます。エノケンがその後俳優としてデビューしたのもこの甲陽撮影所でした。
大正13年2月から映画撮影は開始されますが、その第一回作品「愛の秘密」は、同年7月に公開されました。徳永フランクが監督し、岡村文子、徳永フランク、砂田駒子が出演しています。
東亜キネマ発足当初の俳優・スタッフです。前列右から吉川英蘭(男優)、柳さく子(女優)、一人おいて金谷たね子(女優)、谷幹一(男優)、後列右より4人目高木鉄也(監督)です。
「日本映画の父」牧野省三氏を招いて
新進気鋭の若い映画関係者を集めて映画製作を始めたものの、保険会社が映画撮影所を経営するのはむずかしく、早々に立ち行かなくなります。そこで大正13年6月30日、牧野省三氏設立の「マキノ映画製作所」と合併しました。
牧野省三氏は日本で初めて職業としての映画監督の地位を確立し、日本映画の基礎を築いた人物であり「日本映画の父」といわれています。坂東妻三郎はじめ嵐寛寿郎などスター俳優や、多くの監督を育てました。
牧野氏を慕って、俳優、監督、脚本家、技術スタッフなど、多くの映画関係者が訪れることになり、甲陽撮影所に華やかさが吹き込まれました。
牧野氏が所長となり、甲陽撮影所では現代物を中心に製作されました。確認できた映画は、大正13年7月から12月に18本、大正14年47本、大正15(昭和元)年49本、昭和2年7月までで23本あり、ひと月に多いときで7~8本は製作されていたようです。
なぜ、これだけの映画が甲陽撮影所で製作されたのでしょうか。
牧野省三氏を東亜キネマに招へいできたことが最も大きな要因ですが、関東大震災後、東京地方の撮影所は壊滅状態となり、活動拠点が京都に移され、若手映画関係者が活路を見出すため関西に流れてきたことがあげられます。
また当時、映画の封切りは東京よりも関西が先行し、さらに神戸のほうが大阪よりも平均して一週間早かったため、映画関係者が神戸に集中することになりました。元町あたりは多くの女優・男優が闊歩していたようです
カフエー“パウリスタ”
そしてもうひとつ、甲陽園を開発した本庄京三郎氏が「大阪カフエーパウリスタ」の社長であり、甲陽土地株式会社事務所とともに、その1階にパウリスタの支店を開設したこともあげられるのではないでしょうか。
ブラジル移民の父といわれた水野龍がはじめたカフエーパウリスタは日本全国に展開し、大正12年以後はそれぞれの店舗が経営をはじめます。銀座や浅草の店舗に多くの文化人が集まり、文化活動の拠点となっていました。
東京から来た映画人・文化人は、カフエーパウリスタが、大阪や三宮だけでなく甲陽園にもあるのを知り、なつかしさから好んで足を運んだようです。甲陽園のパウリスタでかつて親しんだ知人と再会し、旧交をあたためるうち、新たな文化拠点となっていったと思われます。
映画は次々と製作され、牧野氏は大正から昭和初期に活躍した大衆演劇「劇団新国劇」の人気役者澤田正次郎を主役に、甲陽園周辺を舞台として「国定忠治」「恩讐の彼方に」を新国劇の関西公演の合間に一週間で作りました。
ところが、この映画製作がもととなって、牧野氏は東亜キネマを去りました。大正14年中ごろのことです。
サトウハチロー氏の弟佐藤節(たかし)氏が、大正13年東亞キネマに入社し、その縁があってか、兄弟の父であり、「あゝ玉杯に花うけて」などの小説で人気を博した佐藤紅緑氏が牧野省三氏に代って所長となり、脚本を手がけます。三笠万里子主演の映画も撮影されました。
しかし、華やかな時代が過ぎるのは早く、世界恐慌のあおりを受けて昭和2年夏ごろに撮影されたのを最後に、閉鎖されたようです。昭和10年ごろ極東映画が甲陽撮影所を利用していた時期もありますが、それも長くは続かなかったようです。
甲陽劇場は太平洋戦争末期、川西航空機“紫電改”の部品倉庫になっていたと伝えられます。撮影所事務所は昭和30年頃まで残っていました。
甲陽公園開園当初に建設され唯一残っていた洋館、甲陽土地株式会社事務所兼カフエー・パウリスタが取り壊されることになり、平成28年9月3日、一日だけ「カフェ・パウリスタ」が復活しました。新聞報道もあって、当日は午後4時から8時までの僅かな時間に800人ほどが訪れました。これほどの人出ではなかったでしょうが、かつての撮影所周辺も多くの人が訪れ、いこい、語り合ったことを彷彿とさせるイベントでした。
甲陽園の地から大正時代の建物はすべてなくなりましたが、パウリスタ時代からのステンドグラス、シャンデリア、階段の親柱は「海外移住と文化の交流センター(神戸市)」で保存されることになりました。
参考文献
『神戸新聞』 「神戸と映画・芸能」(昭和46年11月19日)(昭和46年11月20日) 「続神戸と映画・芸能」(昭和47年4月20日)
『市政ニュース』第375号(昭和43年2月25日)
『大阪朝日新聞』(大正13年7月2日)
『甲陽園アルバム』解説
『演劇映画企業通信』(平成1年6月11日)
『カツドウヤ水路』(山本嘉次郎)
『朝日新聞』 「映画のふるさと」(昭和44年7月25日) 「阪神間ものがたり」(平成9年12月9日)
『甲陽』
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